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高石忠幸は異色な経歴の持ち主である。

「高校時代は数学と物理が苦手で、得意なのは国語と…………野球。今思えば何よりも仲間と集まり意味もなく語り合うのが楽しかったなあ。」

夢を語り続けた青春時代

当時はいつも30人位の仲間と集まり将来の夢を語りあった。 彼の周りからは笑いが絶えない、学校一のエンターテイナーだったと野球部キャプテンで友人の広浜さんは語る。

高校当時、彼の夢は俳優であった。卒業後は迷わず日活芸術学院に入学した。

「俺の親父が役所勤めをしていたのですが、親父にどうしても日活芸術学院に入りたいと頼み込んだところ、当時、親父に支給されたボーナスと日活芸術学院の入学金の金額は同じだったので、親父がこれも何かの縁だと出してくれました。親父にはとても感謝しています」

日活芸術学院は映画会社の日活が経営し、1975年に東京の調布市にある日活撮影所内の一角に設立された。

日本では唯一、映画撮影所内に存在する学校であったが、2013年3月にその歴史ある幕を閉じた。38年間で3,500人以上の人材を輩出してきた日本映画の名門である。

その後、日活芸術学院で演技を学びながら、いくつかの舞台や映画エキストラに出演はしたものの、なんとなく燃えられない自分が嫌だったと当時を振り返って高石忠幸は語った。

それからまもなくして高石忠幸の夢は1年間半で終わりを遂げた。

「親父に合わす顔がないけど、種子島に戻りました。そしてとりあえず責任あるオトナは就職しなくてはということで地元の病院に就職しようと思って頑張って看護師の資格を取りました」

その後、鹿児島市内で看護師資格を取得後、種子島の大手病院である田上病院に務める。それからずっと一貫して介護の道を歩み続けてきた。

そして高校時代とは同じく、種子島に帰っても、彼の周りには笑いが絶えなかった。

「成績が良くないだけでハグレてしまう奴、頭がいいだけで性格の悪い奴とも分け隔てなく付き合った。俺には成績や性格の良し悪しは関係なか。」

仲間の気持ちを大事にして接すること

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現在、高石忠幸は53歳、田上病院が運営する介護老人保健施設「わらび苑」の看護師長であり、看護師や職員など50人以上の部下を預かる。介護老人保健施設のトップは施設長だが、基本的には医師である必要があり、看護師長は組織上は施設長に次ぐ立場である。

そのような立場にありながらも、高校時代の時と同じく、誰にでも分け隔てなく、気さくに話しかける。

今までがそうであったように、今も、そして今後も彼のスタンスは変わらない。彼がはたらく職場は笑顔であふれ、優しい気持ちいっぱいの笑いが絶えない。

介護老人保健施設「わらび苑」のホームページ施設紹介にこんな記載があった。

「あなたの笑顔と共に・・・」

高石忠幸は自分にピッタリの舞台を見つけたのだった。

野球部キャプテンで友人の広浜浩明さん